東京大空襲とは
東京大空襲の概要
昭和20(1945)年3月10日午前0時過ぎ。
空襲警報が鳴り、東京の下町地域に多くの焼夷弾が降ってきました。
米軍は日本の気象をよく研究していました。
当日、東京では春一番と思われるほどの強い風が吹いていました。
焼夷弾の中にはガソリンが入っていて、落下すると中のガソリンが飛び散り発火して焼き尽くす。つまり壊す目的でなく、火災を起こす目的で使われる爆弾です。
火の威力は強風と相まって瞬く間に燃え広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分が焼き尽くされました。
一晩で約10万人もの方が亡くなったといわれています。
目標の一つ、第二精工舎
空襲の目標となった第二精工舎や大日本機械業平工場といった、大きな軍需工場でした。
ただ小さな軍需工場にもピンポイントに焼夷弾が落ちていることから、大小問わず軍需工場を目標としたことが分かります。
また工場だけでなく市街地にも爆弾を落とし、日本国民の戦意意欲を落とす目的もありました。
第二精工舎とは
墨田区で創業した精工舎は、日中戦争勃発の年の昭和12(1937)年、腕時計の生産増強を図るため、腕時計部門を切り離し、新会社「第二精工舎(亀戸)」を設立します。
精工舎は軍用時計を作っていた
陸軍海軍が使う時計を、特別に作っていたのは精工舎のみ。
昭和14(1939)年には“セイコープレシジョン”が陸・海軍将校用時計として生産開始。これが初の軍用腕時計とされています。
任官時や、陸軍の親睦組織であった偕行社や、海軍の親睦組織・水交社(米軍でいうPX)などでは、精工舎の腕時計がお土産として購入できたようです。
しかし、セイコーミュージアムのWEBサイトを見ると、「その後の第二次世界大戦、太平洋戦争と戦局が進むにつれ、精工舎・第二精工舎ともに本格的に兵器類の生産に移行せざるを得なくなりました」と書かれています。
精工舎でも学徒勤労動員が行われていた
『東京大空襲・戦災誌第1巻』によると、第二精工舎では学徒勤労動員が行われており、時計製作の面取りをしていたそうです。
当時15歳で動員されていた渡辺寿美子さんは、「時計バクダンだよ」なんてみんなでわいわい作業をしていたと語っています。
時計製造とともに、兵器の生産が行われていたことが想像できます。
セイコーミュージアムのWEBサイトによると民間用時計の生産は年を追って減少、終戦の年の1945(昭和20)年にはほぼ生産中止したも同然だったようです。
東京大空襲時の第二精工舎
第二精工舎で働いていた人・近くにいた人の体験談
鉄筋コンクリート造の精工舎に避難しようと人が集まるも、裏門は固く閉じられていました。
第二精工舎でお父さんが働いていた佐藤昌男さんの体験談によると、
「父は空襲の始まった真夜中に精工舎3階の職場で働いていたが、空襲が始まり周囲が燃えてきた段階で、暗幕カーテンを引きちぎり、水に浸してかぶり、一階まで逃げてきた。建物の外に出た」と証言をしています。
建物内の方が安全であれば、わざわざ外に出る必要はありません。
つまり、建物内にいては命が危ない状況にあったと想像ができます。
また『東京大空襲・戦災誌第1巻』によると、「第二精工舎の前に会った水神森電停付近は猛火で、第二精工舎が燃えていた」という証言があります。
本当に第二精工舎を狙ったのか
ここからは私見になります。
本当に鉄筋コンクリート造の第二精工舎を空襲の目標としたのでしょうか。
であれば真夜中でなく、多くの人がいる朝の出勤時間を狙うでしょう。
やはり民間人を含む多くの被害をもたらすための空襲だったと個人的には思います。
80年前に亡くなられた方々に思いをはせると同時に、今も戦火の中にいる世界の人々が一日でも早く、平穏な日常を取り戻すことを願うばかりです。
参考文献・サイト
―書籍―
『東京大空襲・戦災誌第1巻』
『国産腕時計⑫戦前・戦後編』
『下町の故郷(早乙女勝元小説選集)』
―WEBサイト―
セイコーミュージアム銀座 第一期:世界を追いかける(1881~1920年代)

Seiko Design 140

東京大空襲・戦災資料センター公式サイト
東京大空襲の記憶 佐藤昌男


