時計と戦争1-兵士と時計-

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昭和の戦争と時計の歴史

戦後80年ということで、昭和の戦争と時計の歴史について紹介をします。

今回焦点を当てるのは、兵士です。

職業軍人ではなく、徴兵されて戦地へ行った人に注目して話を進めてまいります。

戦地へ行った人の時計の入手先

任官時や、陸軍の親睦組織であった偕行社や、海軍の親睦組織・水交社(米軍でいうPX)などでは、精工舎の腕時計がお土産として購入できたようです。

時計修理士も動員された

当時使われていたのは機械式腕時計です。

電池で動くのではなく、歯車の動力によって動きます。

作戦の実行にあたっても、時計は戦場において欠かせないアイテムだったのです。

しかし機械式時計は衝撃に弱い。

しかも戦場は機械式時計が苦手な埃でまみれている。

そこで普段はアルミのケースで腕時計を包んでいたようだが、隙間から埃が入ってくる。

そのため時計修理士も戦地に派遣されました。

戦地で「時計修理班が来たぞー」と言えば、「それーっ」とばかりに兵士たちが列をなしたといいます。

多い日になると10人の班員とのところへ1000個の時計が持ち込まれることも。

中には戦死をする時計修理士もいました。

そんな人物を題材にしたのが国策紙芝居『時計は生きている』です。

国策紙芝居『時計は生きている』

国策紙芝居とは、戦時中、戦意発揚のため子供向けに作成された紙芝居を言います。

戦況の実際を描くものではなく、戦争を正当化するものが多く、子供たちを軍国少年・少女に育てる意図があったと私自身は考えています。

『時計は生きている』のあらすじは以下の通りです。

【あらすじ】 高橋一作は、母一人、子一人の家庭で育った時計修繕工。支那事変がはじまってまもなく、陸軍歩兵上等兵として応召される。戦いの間、高橋は戦友の時計の手入れや修繕をするようになる。

秋、たくさんの時計の音にかこまれて修理をするなか、高橋は母親のこと、そして戦友一人一人のことを考えていた。秋も深まり、戦局が激しくなったある日の戦いのこと。

夜、最後の突撃が迫るなか、高橋の胸には時計の音が響いていた。やがて祖国に無言の帰国をした高橋は、母親のもとに帰ってくる。

「お母さん!もし、私が名誉の戦死を遂げたなら、どうか、この時計を私だと思って下さい」。遺品の日記に目を通した母親が、時計のネジを巻くと、時計はコチコチと動き出した。母親は思わず一作の名を呼んだ。ここに倅がいる、時計は生きていると、軍国の母は思った。(神奈川大学デジタルアーカイブより)

国産腕時計を推奨

中には舶来品の腕時計を持っている兵隊さんもいたようですが、部品が揃わないため修理ができないとして、国産時計を記事では勧めています。

こういう記事の節々にも、舶来品より国産品の方が頑丈だとして、国産時計を買い進める動きが垣間見えます。

兵士にとっての時計

軍事郵便に入れられた腕時計

軍事郵便とは、戦地にいる兵士と故国の家族や知人などが、近況などを手紙を介してお互いにやり取りする唯一のコミュニケーション手段でした。

ただ軍事郵便には、特に兵士からの手紙には、軍事機密の漏洩を防ぐために居場所が罹れていたら隅塗りで消されるなど、書ける内容が制限されていました。

そのため軍事郵便の内容を読むと、「元気でお過ごしでしょうか」、子供へ向けた内容だと「お母さんの言うことをよく聞いていい子で過ごしなさい」など、当たり障りのない内容が多いです。

軍事郵便といえばハガキをイメージされる方も多いと思いますが、封筒を使って物も一緒に送る人もいました。

手紙と一緒に腕時計を内地から送った家族がいたのですが、戦地に届いた時には手紙のみで、腕時計は入っていなかったと証言されています。

今回は兵士と時計について紹介をしました。

日本は今日で終戦から80年を迎えます。

80年という年月を皆さまはどうお考えになるでしょうか。

私は「たったの80年」。なのに戦争に苦しんだ庶民の歴史がうずもれていく様を目にしているような気がしてなりません。

まだご存命の戦争体験者がいる限り、一人でも多くのそうした方の声に耳を傾けていきたいです。

【参考文献】

東京朝日新聞 第1万8961号

神奈川大学デジタルアーカイブ

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